2012年4月27日金曜日

信州の山から意識チカチカ♪ 昨日の続き

信州の山の中かと思った。

と思いピヨピヨと鳥の鳴き声を聞きながら脳内信州を感じておあるいておりました。
  
気持ちいいなと思って駅まであるいて行く。
いつも通る道。雨がやさしくふっているけどちょうど心地よい気温。
昨日の亊ですが、これぐらいだったら傘がなくてもあるいていける。煉瓦の壁の本当に大きな豪邸。大きな家を左にまがり階段を下がって突き当たりを右に。

左側の家の前には小さな植え込みがあってそこにはイガイガな刺のある書き込みが・・・・・・
犬が糞をしていくのにちょうど良さそうなのだけど・・・・・・・

また見てしまった変な書き込み。

その後は主の怒りが文面にふつふつと現れ「ワシは犬の糞はもう許さない。ワナワナワナワナ」という気持ちがビシバシ伝わってきます。

犬に糞をさせるな云々。監視カメラで見張っているぞ云々。

掃除してはまた糞。掃除しては糞。
大変だろうな。

怒っている書き込みなので読んだ私もちょっと苛っとする。
怒りネットワークが連鎖します。

「だいたいさぁ、別にいいじゃねぇか、お前の『土地を所有している私有地』という発想がわからねぇってんだ」
「人間だけの土地って思っている人間は何様なんだ」

インドの「人間だけが生きているわけじゃないのだから動物も糞し放題」の環境がかねてから「僕にピッタリ」と思っていた。 この思考はオートマティックになっています。 公園などの「禁止!禁止!禁止!」の看板をみては切なく苛立ち思考が頭に上がる。

イライラとした言葉に反応してイライラ思考のネットワークが活性化されてそれ相当のイライラ思考が飛び出てくるのでした。 

スゥ~ハァ~スゥ~ハァ~


これが電光掲示板みたいな感じという説明なのでした。
多元的、幾通りもの思考のパターンがある。思考の幾通りものパターンには主体性はあまりない。

電光掲示板で説明すれば幾通りの光かたが設定されている感じ。
 例えば「ウマイ!!」と「ランチ八百円」がひかるように設定されているもの。 
「ウマイ!!」で光るときはその回路で。その他には「ランチ八百円」で光るように設定されている。設定されている回路で光る。 それぞれの回路。

大雑把な説明ですが端的に五感からの刺激がパターンのトリガー。
刺激でスイッチが入る。
人間の意識も無数の回路の集合体。
信州にいるなホンワカ回路から別の刺激が入れば苛っとした回路が働く。


雨の匂いが入ってきたら「信州」やその他に付随した過去の記憶が想起するパターンやネットワークができている。 でも別の刺激、先ほどの「怒り」的ななにか入ると別のネットワークやパターンがながれる。 

「ウマイ!!」の後に「ランチ八百円」と光るように。

回路のパターンの数は沢山。
ストレス溜まると「ラーメン食べたい」
腰に重たさ感じると「ヨガやらなきゃ」
言葉がトリガー。
イメージがトリガー。
音がトリガー。
身体の感覚(生理学的状態)がトリガー。

トリガー毎に色々なパターン、チッカチカ☆
変な書き込みをみたら心の中の「信州」ネットワークが消えて「変化怒り思考」ネットワークが想起される。

刺激→反応→反応の意識の連鎖反応の中に生きていくのでした。

これを古今の聖人君子は寝ている状態、死んでいるのと変わらないというのでした。
ぶつかっててあっちこっちに飛びまくるピンボールの玉みたい。

普段、自分が見ている現実が紛れもない現実だと思って生活している。
でもそれは結構いい加減。 ただ関係のないパターンが刺激に反応して色々とやられたい放題。
世の中の「情報」の絨毯爆撃が怖かったりする。 

意識はネットワークでチッカチカ☆
身体もネットワークでチッカチカ☆
生態系も地球全部で複雑に絡み合う大きな一枚の布でユラユラリ
宮澤賢治の春と阿修羅みたい。

わたくしといふ現象は
假定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといっしょに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち、その電燈は失はれ) 



自分なんているようでいていない。
でもいるような気がする。
私たちが正常だと思っているこの意識経験。

実はただの進化の産物かもしれないという説も。
もしかしたら邪魔なものなのかもしれないという説まであります。


自分という現象は一つのユニットではない。
とはアーユルヴェーダがいう身体観です。

チャラカ・サンヒター身体論7章ではこのような話が。

「身体を独立した単体とみなせば執着の原因になる。
身体の要因が別々の要素としてみなせれば解放へ導かれる。 」

人体は一つの独立したユニットではない。複数のネットワークからなる。
アインシュタインもこのように申しておりました。


人間とは、わたしたちが宇宙と呼ぶ全体の一部であり、時間と空間に限定された一部である。わたしたちは、自分自身を、思考を、そして感情を、他と切り離されたものとして体験する意識についてのある種の錯覚である。この錯覚は一種の牢獄で、個人的な欲望や最も近くにいる人々への愛情にわたしたちを縛りつけるのだ。わたしたちの務めは、この牢獄から自らを解放することだ。それには、共感の輪を、すべての生き物と自然全体の美しさに広げなければならない。実質的に新しい思考の形を身につけなければ、人類は生き延びることができないだろう。(アインシュタイン / 物理学者)

宮澤賢治もチャラカ・サンヒターもアインシュタインも

意識で経験しているものは独立していなくてと申しております。

別々のネットワークがただ一人の人間の中で入れ替わり立ち替わり点滅しているだけと。 

ジュリアン・ジェインズは批判轟轟と出た彼の論文で3000年前の人間は意識という形態を現代の我々と違う形で経験しているといった。

もしかしたら統合失調症は糖尿病がそうかもしれないように過去の意識の状態の名残りかも。

糖尿病は地球が寒かった時に対応するための形態だった。 
統合失調症も過去の意識の形態で太古の社会の「神々の声を聴く用のチャンネル」だったのかもって話が興味深い。 

現在の意識の形態がまぎれもないリアルって証拠はない。
我々が見ているものが当たり前のような気がしている。

今、自分の意識が「独立したもの」という幻想を得て「信州だぁ」なんて意識経験も今だからできるもの。それを今しかできないから楽しんでおこう。 もしかしたら最近のデジタル時代の若者はすでに僕等とは違う意識の形態をもっているのかも。 

デジタル時代の人たちも意識の使い方が変わってくるのだろうな。
自我の形態が違う感覚かも・・・・・・・

生命の変化って面白いな。

今の意識の形態も一期一会。

今、経験しているものも一期一会。

孤独もなにもかも、夢物語ですねぇ。

今日もウハウハOUTPUTですね。

健やかな今を楽しんでいただき存じます。

今日も雨の音が気持ちよいですね。

なんか今日のブログ説教くさい。
失敬。

それではPHISHのBILLY BREATHをお聴きください。
合掌

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