見方を変える必要がある。
現代の医学では生活習慣病を個人の生活習慣に原因があるとしている。
その人がなぜ生活習慣が乱れるのかを見ていない。
人間を環境から独立した個体とみなして「個」として治療する。その人の周りとの関係性を病をみるときに考慮しない。生活習慣病はその人の体内の代謝が変化することによっておきる。過食をし過ぎる、偏食をする。
身体は流れている。動的であり動的な中で均衡状態を保つ。
その流れ、動の部分に異常をきたす。
身体のINとOUT。そのFLOWが乱れる。そして身体には病が現れる。身体の中のネットワークがみだれる。
身体がネットワークであるならば心もネットワークである。
個人という現象もネットワークで現れる泡沫。
身体にINとOUTのFLOWがあると同様、心にもINとOUTのFLOWがある。
心のINとOUTのFLOWが乱れると「足りない」部分のつじつまを合わせようと色々な事をする。過食する。暴飲暴食する。自傷する。薬物をとる。なんでもいい。
忙しすぎる。心へのINPUT、負担が多すぎる。何処からOUTしていいのか混乱する。キャパを越えている。神経が緊張状態になる。
社会、街という「生命体」の構成体である人々が上手く機能できない街の新陳代謝。社会の新陳代謝。それも病気の原因だ。
病気ではないのかもしれない。自然な反応なのかもしれない。
何かがおかしい時の自然な代謝状態かもしれない。
古来、社会がおかしければ社会の構成体である人々がある種の活動をして既存の社会の営みを変化させた。社会が一次的に「病的」な活動をする。革命がおきる。社会運動がおきる。戦争がおきる。荒れてそして元の鎮静状態へと戻る。
身体が熱を出すようなものか? アーユルヴェーダでは熱病に数種類ある。正常な発熱というのがある。正常な発熱では身体に溜まった老廃物を身体が燃やそうと発熱してくれる。そうして身体は正常な代謝を取り戻す。
身体がネットワークであるように心もネットワークだ。そして社会もネットワークだ。
身体の代謝も、社会の代謝もそう変わらないとみえる。「複雑系」の科学をみればそう見える。
流れを整えようとする。
身体の流れのつまりを取り除く。身体の流れの熱を取り除く。身体の流れの緊張を取り除く。アーユルヴェーダはそうやって身体本来がもっている正常な流れがでる状態を整える。後は身体に任せる。
心も流れている。INとOUTがある。INの把握の仕方を変えていく。OUTの出し方を身につける。心のINとOUTが詰まらないように心がける。
身体が詰まりに熱で反応することがある。心も詰まりには熱、怒りという熱をもつ。
単純な話でいけば自分の進む先ややりたい事が邪魔されると不快感を催し打破しようとするような働きがそれ。同じ働き。熱の働き。
自分のOUTをだしていく。思い通りには行かないのは当たり前。でも自分から出すOUTを通そうとする。これはバクテリアが広がっていくように心もそのニッチを広げようとする。心の地平線を広げようとする。主張するとはそういう事だと思う。
自分のアウトを出す時に「どうやってスムーズに出すのか」その知恵、技術を身につけるのもアーユルヴェーダ的には治療だ。心のOUTが詰まれば心の漣を沈める方法をしる必要がある。それも治療だ。沈めるだけでなくコミュニケーション、伝える技術も治療法だ。聞く技術だって治療法だ。
その知識も知恵も人間をいきいきさせるためにある。
全部流れをスムーズに出すためにある。
INとOUTだ。
INとOUTをしている個体がひしめく水面のようであって海全体は今日もユラユラユリユラリ。
個人の体内の代謝も社会と切り離して考えているうちは生活習慣病は直せない。
人間は生きているから、想いがあってのぞみがあって幸せであることを望んでいるから、異常がでた部位や代謝だけを全体から切り離しても治ってはいかない。
全体のつながり、ネットワークの一部、社会、生態系の一部として人間をみていかなければ治らない。
今、悲鳴を上げている人が多くいる。社会の新陳代謝を変えていくこともアーユルヴェーダ的には身体と心のINとOUTを整えていく治療だ。
流れがよくなれば後は自ずとよくなる。
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