今、現実感の話を書こうと思っていました。
ゴールデンウィークで少しブログを書くことから離れていました。
自分のギアーをまた少しずつあげていく。
アーユルヴェーダの講義にスーパーME.evolveなんて名前を付けてみたのは元はと言えば自分の生きている日常の主人公にみなだれしもがなれる。そして自分も含めて「小っちゃいエゴの塊」な自分のからを突き破って世界ニッコリでウハウハ、ドカーンな行動の中に生きて猛烈トランス・エクスタシーってなもんだったからです。
その時に自分の身体を整える、心を整えるというのがありました。
自分の身体はアーユルヴェーダが言うには「流れ」のようなもので地球全体の一部だった。
知識としては分かるけど自分が他の存在達と一体だなんて感覚では分かっていない時が多い。
瞑想なんぞヤラカシて意識をコネクリ回しているとある刹那に「あっ☆」なんて感じる刹那もある気がしちゃったり。それが「思考」、古典チャラカの表現でいうと「MANO BHAVA」なるものに直ぐに入り込んじゃうので「あっ☆」は本当に刹那で通りすぎちゃって。
でも日常の生活ではやっぱり「あー、どうしてあの人はこーなのでしょー?」とか「なんで、あんな事をしちゃったのだろうか?」とか「もし○○になったらどうしよう」と感情と不安と怒りとにこねくり回されて勿体ない残念な時間の過ごし方をしているときも当然あります。
その「思考」というか「心という現象」というか「MANO BHAVA」というのは偏見の塊でそこからどうやったら抜け出れるのかなという事を自分も日々、切磋琢磨しつつもクリニックでもお伝えしようとしております。押忍。
アーユルヴェーダの古典には「○○しなさい」という知識はありますが実践的なノウハウは書かれていないのですね。
「怒りたくないけど怒っちゃう」
「間食したくないけど間食しちゃう」
ナドナド。
自分も含めて身体の神経細胞の働きと今まで癖からやりたくないことを分かっちゃいるけど止められないのが人間の常でそこを「楽しく」できないと意味ないなと思うのでした。
瞑想などもそのツールとしてあります。
現実主義的な瞑想の方が個人的には好みにあう。
現実を無視して現実逃避的な「スピリチュアル」であったり「癒し」であったりする瞑想にはあまり魅力を感じなかったりする。
その人が元気になれれば何だっていいのですけどね。
でも色々、自分の身体を通して紬出される「心という現象/MANO BHAVA」をどうやって再構築できるのかのツールは瞑想だけでなくても色々ある。有効であればなんだって使う。
認知行動療法などでは認知のABCなんて言い方をするそうだ。
ActivationのA (感情を引き起こすトリガー)
BeliefのB (Aの物事をどうとらえるか)
emotional ConsequenceのC(感情的な結果)
このプロセスABCのプロセスは普段認識しないけど昔から培った趣向や癖でオートマチックになっている。
このプロセスを自分自身で変えていく事で何時もの自分の窮屈なパターン化した思考から解法される。
Aのトリガーがあると結果的にCの感情になる。
AからCにしてしまうB、自分の考え方の基盤になっているものはなんなのだ?
日常生きていると物事や人に対してオートマチックに作り上げる偏見ができてしまう。
この間もコミュニケーションの不足から自分の中に変な偏見を作りあげて子供的な対応を人にしてしまったな。
その人の名前を聞くとなんか自動的に変な思考が生まれてきたな。
結果的に「嫌なやつ~」とか思っていました。
結果、この「嫌なやつ~」と思っているときに一番、面倒くさいくて苦しいのは自分で勿体ない。
時間が勿体ない。そんな事に時間ついやしているのは嬉しくない贅沢だと思う。
他に喜べる事に時間を費やしたい。
それで何がBになっているのかと見つめてみるとやっぱりそこにあるのは「自分に対して○○した」とか「この俺様に」的な取るに足らずに非常に下品な思考があるだけなんですね。それでももってしつこいパターンはトリガーが出てくる度に「嫌なやつ~」とかオートマチックになっているのですけど、その都度、その都度、「どうでもいいEGO」とか「また始まった」とかやっているときポワンと解法されるときがあります。
その「変な感情思考パターン」から解法されたときに鳥の鳴き声なんて聞いちゃうともう「生きていて幸せ」とか暖かな気持ちになったりします。
それでその方が自然なリラックスしている自分だったりしています。
こういった糸のこんがらがりは沢山、沢山あるけどようやくおじさんになってきたら一つ一つコツコツと糸を解いていくのも楽しくなってきた次第でございます。
合掌
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