2012年7月26日木曜日

天気みたいな

気持ち悪かったなぁ。

昨日のブログ。

朝みたらタイトルが「守っちゃだめだめ・・・」とか書いてあるから。

朝の自分と夜の自分。

なんだこの言葉は80年代の昭和・バブルの「昼はOL・・・夜は・・・フフフ」的な言葉は。


エロ小説らしい。

日本アーユルヴェーダ・スクールの講義にてこの写真を使おうとしたら止められました。

昼と夜で思いつくとすれば・・・・

「昼はサラリーマン、夜は乙女男」か。新宿2丁目とか。

でも昼も夜も本来、別物で至って不思議でもなんでもないなぁ。

社会的なジェンダーの枠って幻想的だから衝動に任せて行ったり来たりできるのはある意味、自由人だな。COLLECTIVE CONSCIOUSNESS(集合知)とでもいうのかそれって人間が集まってでっち上げた枠組みでそれにはみ出る人間もいいではないか。

インドの修行僧の一派はそのような俗の価値観を超越する事を修行法にした一派がいる。

奇声あげたりするそうだ。

傾奇者だ。

奇声ってのがいいね。

心の奥底に埋められた夜行性の動物がとびでるが如く。

本来の多元性というのはあってしかりで。

昔の文化はそれを昔話とかで表現していたのかな。

妖怪とか。

妖怪とかおばけの話は人間の話なのだと思う。

私達の心に巣食う状態。

目に見えないものはお互いさまだからこういう観点で妖怪・おばけがいるかと問われればいる感じだね。ウィルスを「取り付くもの」と読んだ言語感か世界感か「ウィルスはたんぱく質の集まりだ」的な言語感か世界感か。

昼と夜の顔をもっているとすれば思い出すのがインドの犬。

インドの犬は昼は可愛いけど、夜は徒党を組んで野性化して子供位だったら襲って食べちゃうらしいです。

夜になると夜行性の動物が這い出てくるように、見えないけどそこにいる習性ってあるのだと思う。

川の様子が変わるように天気の様子が変わるように人間の健在意識にあがるものなんてたかが知れている。脳に入ってくるINPUTが100万BITだとすれば意識にあがる情報量は1BITらしい。とんでも化学の本だと揶揄されているユーザー・イルージョンという意識とは幻想とする本によれば。1/100万のする主義・主張なんて信じられるか。結局、私がしっていると思っていることなんて千差万別の顔を見せる天気の一種類。晴れている天気をみて「晴れている」と思ってしかもいつかは雨になることをわすれているような感じだ。だせぇ。

人間の意識の仕事とは統合性を保つことであるから昼の顔も「私はこう」で夜の顔も「私はこう」でどっちも疑うことなくまったく平気な顔して私と自分自身に言い聞かせる。

こんなもの首尾一貫しないのが人間の意識の習性。

首尾一貫できるのはよほどの訓練か才能か立ち振る舞いを身につけたか時代劇にでてくる侍かインドの聖者か世界各国の聖人君子か。もしくは誰しもが頭の中に衝動とか情念が湧き上がるけどそれと対峙しているのかも。

そのような人間の意識が「私の発想は間違っていない」と主張しているから恐ろしい。

昨日の文章もタイトルがキモい。

今日の朝の私的には。

やっぱり冒険にいきたい。

毎日の普段、目をやらないところ気をくばらないところに。

やべぇ、遅刻する。

行ってきます。

0 件のコメント:

コメントを投稿