明けましてお目出度うございます。
新年は如何お過ごしでしょうか?
先ほど只、見ている為だけに使っているFACEBOOKを観覧しておりました。
なんと情報の多いこと。
素晴らしい発信も素晴らしくなさそうな発信も同列に発信されて薄まっていく。
小学校の時の新年の挨拶。先生が現れる前の教室の喧騒みたいな。
そうしたらたま~に更新するのも良い事なのかもと自画自賛。
ネットというのは自我の呼吸と身体性を飛び越えた所から暴走する意識を持って発信するから本当に西部劇の様な所です。ヒトの色々な感情のアレコレが沢山。
意識というのは自己を正当化する働きがあるようで。何故、そのようになっているのか?
アーユルヴェーダの古典のサーンキャ哲学の部分に纏められている視点は私的にはストンと落ちます。カラダが生き残りたいという根本の本能があります。そこに自己正当化の働きに通じるものがあるのですね。詳しくは3月の講義でお話できたらと思います。エントロピーとか、時空の流れとか、時間とか、エスカレーターの上で反対向きにあるいて同じ場所に止まるとか。
そのような生きものの根源の力です。自己を固持したくて。それが心のドーシャなんです。ですのでヒトの怠惰は「自分のもの」というラベルをはって蓄積する所から怠惰が始まったとな。古典が言うには。アーユルヴェーダの古典も読み解くと面白いですね。それが医学なんですから。
自己を固持する。そこから溢れんとする勢いが「自己の壁」が緩むと駄々漏れで面白いですね。自己の壁とかそもそも変動するもの。性行為している時などは実際に相手と混ざっていると。自己と環境の境目が認知の働きとしても伸びたり縮んだりする事はお話しました。車に乗りましたら車が自分の体の様に脳は処理するという。自己とはそもそも一つではないなんて事も耳タコになるぐらい。ではネットをやっているときはどうなっているのでしょうか? 相当、SFチックになっていそうですね。新しい意識のチャンネルが出来上がっていそう。小学生とか近くにいてもネットでコミュニケーションするように。時空の捉え方がかわっているのかな。
そんなネットの空間なんですけど身体を元にする自我の歯止めがない訳だから普段なら言えないような事が駄々漏れしていそう。影響を受けたくなかったら余りやらない方がいいですね。ロクなものがないようです。ルサンチマンの塊とか。
私たちに足りていないものは「ヒト」要素ではなくて「自然」要素だと思います。身体性、実在とかそっちですので。と思っていますが、嫌いではないです。
今はヒトの醜い部分が駄々漏れでネットの世界もワイルドになっております。西部劇の時みたいな。段々、免許制度みたいな事になっていくのですかね。ネットの世界も。人間と社会の理解が進んでいくと益々、言葉一つが他人を影響していくことが、世界に影響を与えていくことが分かってくる気がする。50年後とかになると「昔はネットで言いたい放題のやりたい放題だったらしいよ」みたいな事になるのでしょうか?
ネットの駄々漏れから妄想してみました。
さらに時代が進んでいくとハーモニーというSFの小説にあるように「自我」こそが過去の進化の残りカスみたいな話になっていって。心に影響を受けるものがあると「セラピー」されちゃう世界。「不健康」が贅沢品。タバコすいたければネット環境のつながっていない世界にいかなきゃいけない。ネット環境のつながっている世界では常に体の数値がモニターされていて中央管理されている。ベストな健康状態を保つように。健康に嫌でもされちゃう。
本来、自己というものは一つではないというのはアーユルヴェーダの古典でもそうだし、ジュリアス・ジェインズというヒトの賛否両論で避難轟轟だったバイキャメラル・マインドという説でもでてきました。オドュッセイアの叙事詩ではヒトは自分という意識を持たずに生きていた。神の声を聞くモードというのが発動すると皆が同じ行動を示していく。今のメディアに影響されることもネットゲームにハマる事もファッションも流行りも廃りも自分の主体性なんかなくてヒトの流れでそこに自己なんてある感じがしているだけであまり無いと思っています。自己が確固に居るというのは時代的な歴史的なコンセプトだと。そういう意味では私たちの時代は「自分万歳、自分最高、自分、自分、自分、チャケダッチョー」となんとも自分不幸な時代ですね。自分を確固にしようとすればするほど切り離されていく。そうすることで「つながり。つながり」を求めていく。
それが本当かどうかはさて置いて、そんなに人間で自分を意識しないで生きています。古典の考えでは昔は「自他の区別」はないのがヒトだったと。自他の区別の無い、自我の壁を破った所がエクスタシーならなんとなくそう思えます。
ネットの駄々漏れから自我の壁までグルっと妄想してみました。
なんだか説教臭い気がします。自分がタダぼんやり考えている事です。なんとなく考えている妄想です。良いとも悪いとも思っておりません。面白いと思っております。実際、私はネットで海外の大学の講義がタダで受けれるこの時代を面白くなってきていると思っています。何時の時代も変だと思えば変だし素晴らしいと思えば素晴らしい。懐古主義なんてクソクラエ♡
もう少し上品にいった方がいいのかな?
今の時代を精一杯生きるしかないじゃない。
ガンジーの言っていたように「変化を望むなら先ず自分がその変化そのものになれい」
ニッコリ、ピースな世界だったら先ず自分がニッコリ、ピースに。
いや、全然できないですよ。未だ未だですよ。ムカつくと「けっ」とかなっている態度が駄々漏れしますけど。でもどちらかというと自分が疲れるのが面倒くさいだけで自分が「ムカー」としていると面倒くさいじゃないですか。
長々とした話をしたのはどうにもイントロです。
年始にエディット・ピアフの映画を観ました。
それで感じた事はリアルじゃない生き方は嫌だなという事。
それでそれで毎日が勝負の日でチャレンジの日で天気の良い日で健やかな日。
本当に苦手なヒトとかもいるのだけどどうやったら苦手なヒトを越えていけるのか、自分を越えていけるのか、自分自身がニッコリなモードでいけるのか面白実験記録のノートを作りました。
それもエディット・ピアフの映画をみていて思った事でした。
何かに傷ついたら、自我の高慢さを侵害される。ムカつく時って大体において自我の高慢さに立ち入られた時。小池龍之介さんの面白表現ですと「この高貴なわたくしめに向かってなんとけしからん」となっている。それで「彼奴、ムカツク」となる。それから自己正当化の脳内連鎖。それがそれがそのプロセスそのものが非常につまらなくて疲れる。
飽きた。前から飽きている。広がりたいし、パンクロックで、デストロイだ。何をデストロイするかというと使い古したパターンだ。何時だって体は学習している。嫌いなヒトとか疲れる。面倒くさい。自分とかどうでも良い。綺麗な天気と健やかな空気とこれほどまでにも世界はキラキラなのに。
どういう訳か変なパターンが組み込まれている。幼少の時からか元々の神経の配線なのか。脳を含めた体なそのように学習してしまった。そうやって生きていくことでサヴァイヴァルできるのだと。ちょっと詰まらないから、それで脳に学習させ直す。
スーパーMEも元々そのようなもの。
スピリチュアルとかじゃなくて身体の働きとしてどうやって開いていけるのか。
自分自身の脳内配線作り直しハッキングの旅路の途中です。それ自体のツールをスーパーMEで発信しています。それを自分でやっていることの変化とか上手くシェアできたらなーと思っております。
こんなに綺麗な世界ですのでピースになるには自己を先ずピースにしなければ。
それでそれで今日はくる前に慈悲の瞑想というのをしっかりやっていました。
自分の詰まらないフガイなさと自己の高慢さに固執することを可哀想に思います。と同時に私が嫌いなヒトも同じようなモードで可哀想に思います。どちらも可哀想すぎてアホくさぁーと心地よく瞑想できました。
そしたら朝、急に出会っちゃたんです。件のヒトと。
ちょっと挨拶。
とりあえずのコミュニケーション。
一応、自分の壁を乗り越えていくと心がポッと暖かくなるじゃないですか。
ワーイ、ワーイ。
今日はもう、満足(笑)
そうそうこちらのポッと暖かくなるほうが楽ちんなんだよね。
そうやってこのポッと明るくなる感じに向かっていける旅にならんことを!!
皆様共々、世界を一つ明るくでき、「わぁー、気持ちいいー」って思える良い旅の一年になることを!!
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