2012年11月6日火曜日

無限大シンクロ・マックス

自分を含めたところでどうして人は「枠」とか「檻」を作って狭い所に自分を押し込めようとするのだろうか?

なんだか意識の檻なぞに留まっていたくはない。

もともと自他の区別がないものの中に認知のプロセスで自他というものができただけで自分なんていない。音を聞いていれば自分が音を聞いているのではなくて音こそが自分だったとか。こいつ、嫌な奴だなと考えていればその思考そのものが自分自身だったみたいな。

ここからここまでが自分でここからここまでが他者とかやっていると詰まらんとは思う。

だから開くように開くように意識を向けようとするとぱぁ~と開く瞬間もあってそれはそれが「ウフフフフ」気分だ。胡散臭いぐらいに。

(そういえば謎な言葉使いをするからほめ言葉とそうでない言葉と変な言葉の基準が違ったりしてたまに困る。「変」はほめ言葉だったり。「ど変態」「狂っている」とか超絶のほめ言葉なんですけどどうやら世の中の基準は違うらしい。言葉の認識の差異というのは話す人相手にかえなきゃいけなくて大変だなぁ。)

自分が今まで想像も出来なかった世界に飛び込んで想像もできないぐらいエクスタシー・シンクロ・マックスに入り込むんだったら今まで違う発想しなきゃいけないわけ。

だれにも強制されずに自分の好みのままに人生の38年を旅してきて今、自分がいるところが嫌ではないけど今、自分がいるところと違うところにいきたかったら自分の発想の外側に出なければいけない。そこに向かうために今の自分自身を全肯定しちゃって歩み始めるって逆説的な所が面白いけど。

自分の発想の外側だったら大体、自分で気づかない。
自分で気づけるものはそもそも自分の発想内な訳でそれに従えば「今、自分がいる場所」にくるわけだ。
自分の発想の外側はそもそも自分では気づけないものな訳で他人の風当たりというのはそういう意味で自分の意識を軌道修正な世界からの風、程度なもの。

他人の風当たりも発信場所を個人に特定しないで世の中のという集合意識的な世界からの風という感じで(少し胡散臭い笑)とらえると別にどうということはなく軌道修正する感じで風とともに音楽をジャムれば良い。ボブ。マーリーもジャミング ジャミング、アイ ワナ ジャム ウィズ ユー♪といっていたのでそうだそうだと激しく思う。僕も世界とジャムしたい。

あんまり世界ジャミングとか時空ジャミングとかわけ分からない事をいうと胡散臭いな。

そうそう意識が檻の話。

意識が檻で檻の中は子宮で子供の時に昔作った基地作りをまだやっている。

マスターベーション的心の箱庭、心の子宮か。

キモイ

ウザイ

外をあるいて猫をみているとなんと自由な。

鳥の声を聞いているとそりゃ~楽しそうだ。

雨に跳ね返る木々の葉っぱのボヨヨン ボヨヨンとはなんとも馬鹿っぽい(ほめ言葉)

自分の無限の可能性に蓋をしてしまうのはいつも自分の意識で

そんなの面白くないから

なんでもかんでも手放して手放して

どうせ最初から何ももっていなかったし。

でもって全部手放してみたらきっと全部手に入るんだろうな。

というか所有という概念がないから

って今、この瞬間がその状態だったのか。


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