2012年10月3日水曜日

恐れていると思っているのは僕だけか?

なにかを恐れているのだろうなぁ~という話をしたいと思います。

私は日々常々、人に説教臭いとか言われがちな仏教とかダライラマとかヨーガとかヒンドゥとかの本や意見に目がふれる事がよくあります。

だからなのか、かれらの意見の中に私達のデフォルトに恐れや不安というのがあると、半ば思い込んでいるんですね。

ただそれを日常の中で「今、怖い?」とか他人に聞いても「はぁ~?」というリアクション。

なかなか伝わらない。

「怖くないの?」

「別に」

「こわくなきゃおかしい」

とよく解っていないもので。よくわからないから尚更伝わらない。



「恐怖」というのは人間の行動の根底にあるもの。
動物では恐怖というメカニズムを通してサバイバルの道具にする訳なんですね。
なかったら大変というか生きていけない。

ただ恐怖と行った場合には因果の関係がはっきりしている。

この間、マムシが沢山いる山に行ったのですね。

このマムシが沢山いる山っていうのは私は山の住人ではないので実際、どれほど沢山いるのか解らないんですね。

マムシに合うかもと思っている状態と実際にマムシにあったときの状態が全然違った

マムシが出るのかもなんて思っている方が全然、怖い。

「マムシがでそうな雰囲気の岩肌」

マムシがでる、マムシが、うわ、このジメっとした岩肌、ここなんて岩の中にいそうじゃないかと。

こんな時、意識はご丁寧に岩肌の映像なんてのを作ってくれる。

「ほら、ここの下草のあたりなんて・・・」とか思っている。

呼吸の息遣いから、神経の働きも。アドレナリンやコルチゾールの血中濃度も上がる。心拍のレベル。

実際、マムシに出会ったのですがそれはマムシに合うなんて思ってもいない時だったんですね。

それが実際に出会ったマムシったらかわいいのなんの。

最近、蛇を飼いたいなどと妄想している私にしてみればこりゃ可愛かった。





実際の対象がいないのにふと感じている恐怖。

恐怖というより不安といったほうがいいのか・・・・・

このような小さな恐怖を沢山、感じていると思っているんですね。

それはどこからくるのか・・・・・

実際に立ち上がって意見を言わなければいけないときに意見を言えない、言わない。

なにを守っているのかって「自分」を守っている訳で。

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クリシュナムルティは結構好きなのですがこのクリシュナムルティの恐怖の話がよく解らなかった。

わらっちゃうくらい。

恐怖というのは関係性から生まれると。

恐怖は孤立しては存在しない。

自身の本当のありかたと自身のこうあってほしいという差異に恐怖は生まれると。

事実の自分があってこうならなければいけない自分というのを想起して、そこに「○○になったら人から○○と思われてしまうではないかぁ」とか恐れて。「ご褒美」と「罰」の間に「恐れ」があると・・・

う~ん、解ったような解らないような。

恐怖は責任とそこから逃れたいと思う意志のもとに発生する。

でも責任あるから逃れられない。

今、全てを投げ打って「わぁ~い、私は自由だぁ」と無責任にいくと「無責任な自分」と対峙しなきゃいけないなという恐怖かな?  

「成功」への過度の期待と「失敗」への恐怖。

あ~、これはちょっと解るな。

そう「失敗への恐怖」はわかりやすい。

それから恐怖は「意識のプロセス」の一つでしかないとクリシュナムルティは喝破するのです。

○○になっていくプロセスの中に恐怖が生まれる。

「成長」していく時には「失敗」への恐怖。

「出世」の欲望の下には「出世」しない事への恐怖。

「安心・安定」を求めるから「恐怖」が根底にあると・・・・・

ならば自己というのを心底理解して永遠なる自己がなければ恐怖なぞないのだ。

「知る」という意識の言語的働きはすでに牢獄。

過去の残響でしかない。

現在、今という瞬間は開かれていて。

でたぁ~、インドのおじさまのごもっともなご意見。

「そりゃ~、そうなんだけどね・・・・・・」と思ってしまう。

瞑想の訓練に訓練して意識を「現在」に固定できて時間の流れとともに今、今、今と一緒に流れていけて自我が作り出される前の前の前に意識を置いておけばそりゃ自由だし無限だ。

瞑想好きな人にはそれで伝わるし瞑想している人にもそれで伝わる。

どちらにしてもここへくるのかな?

瞑想とかって事じゃなくて今を生きる音楽に没頭するとかできるのだったらそれでいいと思う。



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それではそれでは

アーユルヴェーダではこのように唄う。

ディー・ダイルヤ・アートマーディヴィジュニャーナム・マノードーシャ・オーシャダム・パラム。

「分別する事をみにつける、揺るがない能力を身につける、自分自身や真実についての知識を深める事が心の乱れの一番の薬」(超意訳です)

先ずは自分自身はいつだって自由。

いつだってなんだってやってもいいしできるんだ。

自分自身の責任において。

なんだってできるのに最初から、それをできないと決めつけているのは自分。

「じぶんはこれぐらい幸せ」であるべきとか。

「自分は幸せにはなれない」とか。

最初から権利を拒否しちゃっている感じ。

自分には無理だって。無理だって思った瞬間に無理だ。

瞬間、瞬間に選択を迫られている。

その心の根底には「恐怖」がある。

そこで自分に固執する。

本当はなにももっていないのに。

自分の身体も今、ここにあるだけで。

自分の人生も泡沫でしかなくて。

ただ一つの季節に生える草のようなもので。

そのようなものなのに何を守る。

何を守る。

何を守っている?

死んだら裸でなんにも持っていけない。

サクッと駆け抜けて。

駆け抜けて

駆け抜けて

固執しない

固まらない。

なにももたない。



だから岡本太郎が(また!!)

俗に人生の十字路というが、それは正確ではない。人間は本当は、いつでも二つの道の分岐点に立たされているのだ。この道をとるべきか、あの方か。どちらかを選ばなければならない。迷う。
一方はいわばすでに馴れた、見通しのついた道だ。安全だ。一方は何か危険を感じる。もしその方に行けば、自分はいったいどうなってしまうか。不安なのだ。しかし惹かれる。本当はそちらの方が情熱を覚える本当の道なのだが、迷う。まことに悲劇の岐路。


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