古典のここが嫌いだ。
古典を読んでいると不思議なもので自分が変わると理解が変わる。
以前はこのような打算に生きている姿がどうにも好きにはなれなかった。
古典は好きだけどね。
対決しているのと人にいったら分からない人の方が圧倒的だった。
インドの人にはこういう話方はしない。
言葉のひだが日本人とは違うから。
暗に表現するのが日本人とは全然違うから間違えられる。
彼らはどういう表現をするのか。
私は神様からという話はあまりしない。
思っていてもしない。
過去生の話もしない。
したところで今、過去云々ではないと思っている。
やらなきゃならない事が山積みだから過去に現在の説明委ねるのは贅沢だと感じる。
・・・・・・・・☆☆☆
突撃系のブレーキの無い人が好きだ。
言葉ではないのだと何時も思う。
自分は自分自身の人生と本気で対峙していない。
一瞬、一瞬に死ぬことも生きることも本気なパンクでがつりといっていない。
人生の時間を無駄に過ごしている。
それは私自身が生きた言葉より経験の中から腹のそこから捻り出す呻きとも叫びともない言葉を鼻血噴射系で現実に全身全霊で向き合っていかないからだと感じている。
心理の本とか瞑想の本。
嫌いではないけど気持ちわるいと思うこと多々。
バカだなと自分の事を思うのは活字にだまされて自分の感性が確立していないと感じるとき。私は瞑想して自分の心の落ち着きを昔よりは持つことができた気がする。だからこうして瞑想する。それは良かった。でもグチャグチャになっている中でも当たり前の事を目指して行く素直な生き方の方が共感できる。
道が二つに分かれた時とか、冒険の入り口の扉、人生の旅路を本気ボヘミアンで生きるには踏み出してケチョンンケチョンにされるも起き上がって何回も。
その中でゲラゲラ笑っちゃって、もう笑うしかないではないか。
だから未だもって何かにしがみ付いている自分がいる。
守り。後ろ向き。生命への冒涜。
守る必要のないものは自分。
自分の弱い所と何回も出会って何回も負けてでも又、次と又、次とやっていけば何時かは猛烈にブレーキの壊れた駆け抜ける涎と鼻水でいたいと思う。
・・・・・・・・・☆☆☆
西原理恵子とかリスペクト。
百万回生きた猫の佐野洋子とかリスペクト。
南方熊楠とか。
山本夏彦とか。
漁師の男とか狩人の男とか農家の男とか。
誇り高い人とか。
人が死ぬときの後悔TOP5がある。
自分にどれだけ素直に生きたのか。
自分の声を無視しなかった。
仕事ばかりで自分のまわりの人と時間を使わなかった。
もっと自分を幸せにするべきだった。
友をきれないで繋がっているべきだった。
後悔まっしぐらな生き方を未だしていのか。
ハタイでは僕をなにか瞑想ばかりして怒らないと思っている人もいる。
まったくもって同様に悩み、同様に失敗し、同様にやらかし、逃げ回り、人のせいにしちゃいそうになったりどうにもこうにも下衆な外道で浮世の衆生。
律していたい。
動じずにいたい。
おお、ヤヴァイ。
こんな時間だ。
もう寝よう。
このウォーター ドラムが自然な喜びって感じで素晴らしいのでございまする。
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